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基本
エンフィールド銃の配備当初には潤滑用途に何を薬包に塗れば良いのか試行段階にあり、弾丸も若干大きめで兵士達が装填時に苦労させられた(壁などにサク杖を押し付けて無理やり押し込んで装填したほど苦労した、という話もある)事が伺える内容だが、イギリス東インド会社軍が1857年1月末の時点でダムダム工廠製の薬包に牛脂は使用されていないとセポイ達に説明している事を考えると、エンフィールド銃の配備から4年も経った時点で果たして本当に牛脂が使用されていたのか?との疑問が残るし、豚脂の使用に至ってはまるで記述も残っておらず、単なる噂の域を出ないか、イギリスで追加された創作の可能性が高い。
また、薬包に脂を塗って防湿する事は16世紀から一般的に行われていた方法であった。
銃身の内径より小さめの球弾を使用するマスケット銃では、銃身を下に傾けると球弾が転がり出てしまう場合があり、これを防ぐためには装填後に弾押さえ(薬包の残り紙を口中で噛んでガム状にしたもの)を使う必要があった。これは
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の端を噛み切る行為に比べて格段に抵抗感があったであろうと推測される行為であるにも関わらず、2世紀以上に渡ったセポイ達の軍務において薬包が問題になった形跡が無い事は、蜂起原因に関する通説に大きな疑問を投げかける。
^ ミニエー式の出現以降、弾丸の速度はより上昇し、弾丸のサイズは小さくなる傾向が続き、銃身内への鉛のこびりつきは早々に紙で防げるレベルを超えてしまった。 やがて黒色火薬に変わって無煙火薬が使用される時代になると、発射時の高圧と摩擦熱で鉛が溶けてしまう現象が報告されるようになる。この対策として銅系の合金で鉛の弾丸を被覆(ジャケット)する方法が広く利用されるようになり、ほぼ現代と同じ構造の弾丸が使用されるようになった。 しかし、銅系の合金で被覆された弾丸は命中後に大きく変形する特質を減じてしまっていた。このため英領インドのダムダム工廠では、弾丸の先端だけ被覆せずに鉛を露出させる事で、命中後に大きく変形する特質を復活させた弾(現代ではソフトポイント弾と呼ばれ狩猟用に用いられる)を試作・製造した。これが有名なダムダム弾と呼ばれる銃弾であり、セポイの乱から40年近く経った時期の事だった。 ダムダム弾は実戦(正規軍間の交戦)で使用される前に、1899年のダムダム弾の禁止に関するヘーグ宣言において『外包硬固ナル弾丸ニシテ其ノ外包中心ノ全部ヲ蓋包セス若ハ其ノ外包ニ截刻ヲ施シタルモノノ如キ人体内ニ入テ容易ニ開展シ又ハ扁平ト為ルヘキ弾丸ノ使用ヲ各自ニ禁止ス』とされ、現代に至っている。 ダムダム工廠がこのような弾を製造したのは、大きなうねりを見せ始めたインド民族運動への“効率的”な対処=弾圧のためであり、内政の一環としての暴徒や叛徒の鎮圧という名目であれば、こうした残虐な兵器の使用に対して 国際法上の制限は何もなかった。 こうした叛徒とされるような立場の人々が正規軍と同じ扱いを受けられるよう規定したのは、酸鼻を極めた“内戦”であったベトナム戦争終結後に締結されたジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年)においてであった。
^ ヒンドゥー教徒にとって、シヴァ神の乗り物であるナンディン神と同一視される牛は、食べる事が憚られる動物であり、シヴァを祀る寺院では必ずナンディンが入り口を固めているため、牛を食べた者は中に入れないルールになっている。 勿論、全てのヒンドゥー教徒がシヴァを崇拝している訳ではないので、ヴィシュヌ神やブラフマー神、ガネーシャ神やカーリー神を主に崇拝している者には直接の影響が無いにせよ、シヴァはヒンドゥー教徒全体にとって重要で最も人気のある神であり、その障りを恐れる気持ちはヒンドゥー教徒にとって共通である。 近年も、米国系ハンバーガー・チェーンが牛を原料とする材料をフライドポテトに使っていた事が判明し、在米ヒンドゥー教徒の抗議を受けた件や、牛肉を使うメニューを一切なくしてインドに進出した事を見ても、ヒンドゥー教徒の牛を食する事に対する忌避のレベルが理解できるであろう。
^ 現在のインドでもMangal Pandeyは国民的英雄であり
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にもなっている。2005年には何度目かの映画化作品である『The Rising』が公開され全インドで大ヒットした。 この作品中でもエンフィールド銃の薬包は重要な伏線であり、薬包を噛み切るシーンはクライマックスともなっている。 しかし、イギリス人将校と友情で結ばれたMangal Pandeyのキャラクター設定やサティーに対する批判的スタンスなどから、「インド人の抱く彼のイメージを“汚染”する」として、BJP/インド人民党による上映中止運動が起きる一幕もあった。
^ 極東の日本・
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と上海の間に生ゴムで被覆された海底ケーブルが敷設され、電信が開通し世界と繋がったのは1871年の事である。
^ インドにおけるキリスト教の歴史は非常に古く、既に西暦52年にはキリストの12使徒の一人である聖トマスによって、インドにキリスト教が伝えられていたとの伝承があり、土着キリスト教とでも言うべき信仰が南インドの沿岸部に存在していた。またゴアを中心とするポルトガル領インドからのカトリック教会の布教(日本にキリスト教を伝えたザビエルも当初ゴアでの布教に従事していた)も根付いていて、ヒンドゥー社会とも永年にわたる調和を保っていた。 ムガル帝国時代のヒンドゥー社会と従来のキリスト教が調和を保っていた背景には、布教の対象が主に最下層カーストまたはカースト外の人々を対象に行われ、ヒンドゥー社会そのものへの脅威とは認識されていなかった点にあった。 この当時、ヒンドゥー社会の不満はむしろカーストによる秩序から逸脱する存在であるヒンドゥー社会内の社会的成功者(官吏に登用された者、軍人、商人など)の中から、カーストに規定された階層から脱出できないヒンドゥーを“卒業”して、ジャイナ教やムスリムに改宗してしまう者が少なからず存在していた事だった。その影響でヒンドゥー教の内部からもシク教のようなカーストを否定する分派が出現して勢力を有するようになり、この傾向はムガル帝国が弱体化しても続いた(パキスタンの建国の父であるジンナーも、祖父の代まではクシャトリア階層に属するラージプート集団に属していたと言われている)。 このような状況下で、イギリス人の持ち込んだキリスト教は、植民地化を通じてインド社会を詳細に分析した結果に基づき、社会改革を目標とした下層カーストへのアプローチと、ヒンドゥーを卒業しそうな上流層(セポイ集団もこれに含まれていた)の改宗先として、植民地イギリス社会に『教化』されたインド人として認められる『飴』と、武力を背景とする『鞭』を以って臨んだ。これは社会を上下から挟撃して変容=カーストによる秩序を崩壊させてしまう脅威として、特にヒンドゥー社会の上層を占める高位カースト(実態はともあれヒンドゥー社会を主導する立場である)の人々に認識され、幾多の軋轢が発生していた。この事がデリーでの蜂起時にインド人キリスト教徒が襲撃された事に見られるような、
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のキリスト教に対する強い敵意を生んでしまっていた。
^ イギリス東インド会社にとっても、英領インド帝国政庁にとっても、ムガル帝国の支配層と社会の上流層を形成していたムスリム(インド人イスラム教徒)は、明白な“敵意”の対象だった。これは、初期の各国東インド会社とインド以東の産物を独占して来たムスリム商人との競合関係の反映と、十字軍以来の敵対関係に由来する文化的偏見に基づくものであり、“野蛮な土俗宗教”と見なされていただけのヒンドゥーとは次元の異なる“worse”な存在だった。
ムスリムはイスラム教がキリスト教を超えた宗教であると自認しており、キリスト教に改宗させる事は極めて困難な存在であると見なされていた。欧州人の中での反ムスリム感情は近年の対テロ戦争に際していとも簡単に復活したが、キリスト教を根幹とする欧州文化にとってムスリムの憎悪は信仰と表裏一体であり、憎悪の対象とする事が社会的に許容され易い存在である。 このため、インドにおける蜂起が鎮圧されると共に、蜂起を指導したムガル帝国の指導者達は犯罪者として裁判にかけられ、その構成員と見なされたムスリム達は、共生していたヒンドゥー社会から強制的に分離され、より差別的に扱われるようになった。
^ イギリスに範を採った帝国主義の道を進み、進出した中国大陸や東南アジアで同様の反乱や蜂起を経験する事になった日本でも、同様のパターンでの扇情的な報道スタイルが継承され、軍の検閲で不正確な内容のまま日本国内で報道された通州事件の新聞記事に触発されていた内地の軍人が南京大虐殺を発生させている。 また、インドの見世物小屋をモチーフとした内容のだるま女といった有名な都市伝説にも、こうしたネガティブ・イメージの影響を確認する事ができる。